下町ロッカールーム | 第02話｜藤沢／グッドワイフ

＊ 鏡を磨く、90歳のルーティン ＊

下町のジムのお風呂場には、
湯船と水風呂のあいだに、大きな姿見がある。
夕方に行くと、その鏡はだいたい曇っている。

でも、たまにピカッと綺麗に拭かれている日がある。
そんな時は、私はふと思う。

「あ、今日は来てるんだな」 と。

“コマドリさん”と呼ばれる、
90歳くらいのおばあちゃんがいる。
芸能の世界にいたことがあるらしく、
立ち姿も、物腰も、
下町のおばちゃん達のざっくりした空気とは
ほんの少しだけ違う。

悪口の輪には絶対に入らない。
でも、気に入った相手にだけ、
ふっと優しく声をかける。

私はお話はしたことはないけれど、
いつも感じるのは、
「この人は、美意識が生活に溶けたまま生きているんだな」
ということ。

コマドリさんは、毎回
薄手のタオルを6枚ほど、
きれいに分けてジップロックに入れて持ってくる。

・体を洗う用
・体を拭く用
・髪に巻く用
・体を隠す用
・鏡を磨く用……

用途が決まっていて、
それを一枚ずつ、静かに使い分ける。

そして最後に、鏡を丁寧に拭き上げる。
曇りひとつ残らないくらい、ゆっくりと。

だけど最近、
夕方に行っても鏡が曇ったままの日が増えた。

鏡を見るたび、
少しだけ胸の奥がざわつく。

元気かな。
今日は来てないのかな。

ただそれだけのことなんだけど、
曇り方ひとつで、
その日の気持ちが
ほんの少しだけ変わることがある。

理由なんて、たぶんない。

でも、こういう小さな揺れがあるから、
この下町ロッカールームは、

どこか、ふしぎな場所だな……
と、ときどき思う。


 

藤沢🏷️